2018年06月10日

説教 『空き家になっている』

2018年6月10日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章43〜45節
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

 主は人々に向けて「汚れた霊は、人から出て行くと」と話し出されます。それを聞いて群衆も「自分も心を綺麗に掃除した。それなりにはしている。汚れた者を追い出した」と、ちょっと誇ったはずなのです。

 しかし、でした。イエス様は「(汚れた霊が)『出て来た我が家に戻ろう』と言う」と言われる。さらに「戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた」と。掃除をしたというのは、「自分なりに義しく聖い心で生活を送っている。礼拝もしている。自分の心は悪人のように汚れていない。自分のやり方でそれなりに聖くなれている」という心だということです。そうであるなら「そういう生き方で十分じゃないの」と言いたくなること、ありませんか。

 この「空き家」という言葉は、「暇である。何も働いていない」という意味があります。神の言葉に応答することが働いていないということです。自分の生き方が変わらない姿です。主は単に「空き家にしないように気を付けなさい」と言っておられるんじゃないんです。「誰も結局、神の御声に応答しようとしない、いつまでも変わらないお前たちなのか」と途方に暮れて、嘆いておられるのです。人間にとって、自分で解決できない難問が、自分を変えるということですよね。自分の思い通りに、やりたい通りにしたいと思って来たから、そこで人を傷つけもした。そんな古い自分から、御心を喜んで生きる自分になるには、神様に明け渡さないといけない。でも心の奥では、いつまでも自分の思い通りに生きたくて、だから、自分だってある程度は聖い生き方が出来ると思い込んで来た。できると思い込ませたのが、汚れた霊の策略なのに。そこでなら、「神から離れて生きても自分だけで大丈夫だよ」と思わせることが、簡単に出来るからです。そういう自分から向きを変えて、御心に応答する自分に変わっていくことは、至難の業なのです。

 そういう私どもをイエス様は知っていて、憐れんで下さって「あなたは空き家なんだ。あなたの中に神は居ない」と告げて下さるのです。それも諦めずに告げ続け、関り続けて共に居て下さるのです。そのイエス様だからこそ、このお方に依りすがるなら、そこで初めて世界一頑なな私も、少しは変われるのかもしれない。そこで「主よ、この頑なな私は、今日どう生きればよいのですか」と祈り始めるからです。「あなたの御心に従いたい、主よ、助けて」とチョコっと祈る。またチョコっと、そして四六時中、生活の中で神様と対話をし始めている。そんな神様との対話の時間がいつもあって…。その生活が、神が心の内におられる姿なのです。そのあなたはもう、変われているのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:38| 主日説教要約

2018年6月10日の礼拝

礼拝説教「空き家になっている」、マタイによる福音書12章43〜45節、辻川篤牧師。讃美歌67、461、124。交読詩編32編1〜7節。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ

2018年06月03日

説教 『ぜひあなたの家に泊まりたい』

2018年6月3日の礼拝
東京神学大学学部4年 藤森誠

ルカによる福音書19章1〜10節
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 ザアカイは、イエスがどんな人なのかを見に行きました。しかし、群衆に遮られ見ることができなかったため、木の上に登ったのです。木の上は他に誰もいません。素晴らしい見晴らしです。そこに、イエス様が近づいて来られ、立ち止まり、上を見て言われるのです。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。

 何とも不思議な呼びかけです。イエス様は初対面の相手にも関わらず、家に泊まりたいと言われる。私だったなら、準備ができていないからと断るでしょう。しかし、ザアカイはその言葉に従い、すぐにイエス様を迎えました。しかも喜んで迎え入れたのです。それによって、「救いがこの家を訪れた」のです。その日、ザアカイの家を訪れたのは誰であったのか。それはイエス様です。つまり、イエス様ご自身が救いなのです。そのイエス様は、失われた者を探して救うために来られたと言われるのです。

 失われた者とは、神様から失われてしまった者です。しかし、それは神様が捨てたということを意味しません。神様の元を離れるのは、いつも私達人間なのです。ザアカイは木に登ったことで、最善の選択をしたつもりが、イエス様から遠ざかるという最悪の選択をしてしまっていたのでした。

 ですがイエス様は、自ら離れて行く私達を探して見つけ、あなたの家に泊まりたいと言われるのです。イエス様を家に泊めるということは、私たちの心の中にお迎えするということです。しかし、これが難しいのです。私の心の思いを含めた全生活が、見られてしまうからです。できれば、イエス様をお迎えしたくない。心に私だけが住む時、そこにあるのは、私の思うままにできる自己中心な私です。しかしそれではいけないと主は語られるのです。

 イエス様が私の心に住む時、私達に悔い改めが起こるのです。日々の生活においても、イエス様を思う時、私達の心のあるじはイエス様となるのです。私が望む道を歩んでいたのを、神様が望まれる道を歩む、それも主と共に歩むのです。ここに救いが起こるのです。しかし、気が付くと、私はこう歩みたいという思いが大きくなり、イエス様の居場所を奪ってしまうことがあります。ですから、私達はこの物語を読むたびにイエス様から問われています。「あなたの心に今も私は留まっているのか。そうでないなら、私はあなたの家に留まらねばならない。それが私の意思であり、神様の願いであるのだ」と。そう、主は願っていてくださるのです。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| 主日説教要約