2018年05月06日

説教 『しるしは与えられない』

2018年5月6日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章38〜42節
すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」


 イエス様が手の萎えた男の癒されたとき、群衆が「この方は、救い主ではないか」と噂し始めます。それを聞いた途端、ファリサイ派たちは我慢ならぬとばかりイエス様を詰問し始めたのです、38節「しるしを見せてください」と。彼らが主張する奇跡は、一言でいうなら、天変地異を引き起こす奇跡ということでした。それは彼らが、「救い主はこうでなければならない」という人たちの考えを、イエス様ご自身よりも上に立たせたのです。イエス様を裁く側に立ったのです。

 「しるしを見せろ」と言ったファリサイ派に、イエス様はその思いも見通されて答えられます。39節「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と。ヨナは奇跡を見せたわけではありません。彼はただ告げたのです「神に立ち帰れ」と。ニネベの人々が、「コレをしてくれたら信じよう」という事を一つもしなかった。しかしただ神の言葉を伝えた。その言葉を、人々は神の言葉として信じて、救われたのです。

 しるしとは、御言葉なのです。主は「私が語る言葉が、神の言葉そのものなのだ。それを信じて受け取ればいい」と言われるのです。皆さん、教会の信仰は、言葉の信仰です。御言葉信仰です。御言葉によって生かされるのです。不安の中でさまよう時「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をもそなえていてくださいます」と聞けたなら、それを神の言葉そのものと受け取れたならです。先日、病院で大きな手術をされた姉妹のベッド横でこの御言葉をお読みしました。そのあとで、姉妹はしみじみと「本当に、そうですね」とおっしゃいました。御言葉が、神様がいま一緒にいて下さることを気付かせてくれるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」、その御言葉に(奇跡が起ころうが起こるまいと、全く関係なく)「神様が、私に語りかけている。私の重荷は、主が知っていて下さる」と、しっかり受け取らせて頂けるのではないですか。御言葉こそ、生ける神が私と共におられるという、この世のどこにもない、しるしなのです。

 苦労や病なしでは終われない人生です。でもその私どもにイエス様が「御言葉がある。あなたの傍にある。それが、神の御心のしるしそのものだ。受け取って生きよ」と告げていて下さるのです。私が幼い頃に通った教会の牧師が私に言っていたことを、私も申し上げましょう、「皆さん、聖書を開くのですよ。御言葉を聞くのですよ、心にしまうのですよ。それが神様があなたに示して下さる真のしるしだから」。
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2018年5月6日の礼拝

礼拝説教「しるしは与えられない」、マタイによる福音書12章38〜42節。辻川篤牧師。讃美歌17、130、262。交読詩編15編1〜5。
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