2018年05月13日

説教 『教えと実践の土台』

2018年5月13日の礼拝
相模原教会協力牧師 西田恵一郎
テトスへの手紙2章11〜15節
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。


 「しかし、あなたは」(一節)とテトスに対してもテモテに対するのと同じように師であるパウロは勧めます。世の中の流れがどう変わろうとも、変わらない御言葉―福音―を語りなさいということでしょう。教師と呼ばれる者たちの中に、経済的利得や地位・名誉のために教えをする者がいたとしても、「しかし、あなたは」純粋な動機と誠実さをもって「健全な教え」(一節)―正統的な聖書の教え―を伝えなさいと言うのです。そして、五種類の階層に対する具体的な教えの内容を示します。その教えは「語る」「勧める」「教える」(一、七、八節)だけでなく「良い行いの模範」(七節)を通して伝えられなければなりません。これもテモテに対する勧めと同じです。私たちキリスト者には、言葉における真実さと、その真実さを証明する行為が求められています。そこにはただ神が崇められるためというひたすらな思いが必要です(五、八、一〇節)。「私には重荷」と感じるかもしれません。パウロは言います「事実、あなたは恵みにより、信仰によって救われました。このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェソ二章八節)。このことを再認識したいと思います。与えられた救いに感謝し、救い主に繋がっていればよいのです。枝は幹に繋がっていなければ生きてゆけないという弱さを知ることが「模範」となる秘訣のように思います。パウロは「わたしに倣え」(Tコリント一一章一節)と言っていますが、それは彼の信仰に倣うという意味で、考えや行動に、ではないのです。良い行いは主イエスに対する正しい信仰から流れ出るものなのです 。キリストによって「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れた」(一一節)のですから、この恵みによって私たちは「今」を生き、そして「栄光を待ち望み」(一三節)―再臨を待ち望み―つつ生き続けるのです。「ご自分のものとして清めるため」(一四節)に私たちを贖い出した主は私たち以上に私たちと相見えることを待ち望んでおられます。これ程までに愛されているのです。確信をもってこの道を教え、生きてゆきましょう。
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2018年5月13日の礼拝

礼拝説教「教えと実践の土台」、テトスへの手紙2章11〜15節。西田恵一郎牧師(和泉短期チャプレン)。讃美歌16、501、344。交読詩編102編13〜19。
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2018年05月06日

説教 『しるしは与えられない』

2018年5月6日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章38〜42節
すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」


 イエス様が手の萎えた男の癒されたとき、群衆が「この方は、救い主ではないか」と噂し始めます。それを聞いた途端、ファリサイ派たちは我慢ならぬとばかりイエス様を詰問し始めたのです、38節「しるしを見せてください」と。彼らが主張する奇跡は、一言でいうなら、天変地異を引き起こす奇跡ということでした。それは彼らが、「救い主はこうでなければならない」という人たちの考えを、イエス様ご自身よりも上に立たせたのです。イエス様を裁く側に立ったのです。

 「しるしを見せろ」と言ったファリサイ派に、イエス様はその思いも見通されて答えられます。39節「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と。ヨナは奇跡を見せたわけではありません。彼はただ告げたのです「神に立ち帰れ」と。ニネベの人々が、「コレをしてくれたら信じよう」という事を一つもしなかった。しかしただ神の言葉を伝えた。その言葉を、人々は神の言葉として信じて、救われたのです。

 しるしとは、御言葉なのです。主は「私が語る言葉が、神の言葉そのものなのだ。それを信じて受け取ればいい」と言われるのです。皆さん、教会の信仰は、言葉の信仰です。御言葉信仰です。御言葉によって生かされるのです。不安の中でさまよう時「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をもそなえていてくださいます」と聞けたなら、それを神の言葉そのものと受け取れたならです。先日、病院で大きな手術をされた姉妹のベッド横でこの御言葉をお読みしました。そのあとで、姉妹はしみじみと「本当に、そうですね」とおっしゃいました。御言葉が、神様がいま一緒にいて下さることを気付かせてくれるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」、その御言葉に(奇跡が起ころうが起こるまいと、全く関係なく)「神様が、私に語りかけている。私の重荷は、主が知っていて下さる」と、しっかり受け取らせて頂けるのではないですか。御言葉こそ、生ける神が私と共におられるという、この世のどこにもない、しるしなのです。

 苦労や病なしでは終われない人生です。でもその私どもにイエス様が「御言葉がある。あなたの傍にある。それが、神の御心のしるしそのものだ。受け取って生きよ」と告げていて下さるのです。私が幼い頃に通った教会の牧師が私に言っていたことを、私も申し上げましょう、「皆さん、聖書を開くのですよ。御言葉を聞くのですよ、心にしまうのですよ。それが神様があなたに示して下さる真のしるしだから」。
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