2018年05月31日

『日々の聖句』2018年5月

相模原教会の『日々の聖句』
み言葉のパンで生きる365日

2018年5月

短い解説と、牧師の黙想も加えました。ご自身で御言葉を聴かれる一助としてください。
(新約編)
その日一日のためにくじで選ばれた聖句が記されています。『ローズンゲンの日々の聖句』のように、人間の思いを超える神意として、私たちに与えられた御言葉と聞きつつ、祈りへと導かれたいと願います。(牧師・辻川篤)


●1(火)
日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。  (エフェ4・26)

パッと心に火が付いて怒ってしまう。聖書は、それはあるだろうよ、と言ってくれる。しかしだ。その直後に、怒ったままで一日を終えるな!怒りを次の日まで持ち越すな!と命じる。ハッキリと、怒ったままでいるのは「罪だ」と告げる。
主よ、どうか怒りを捨てる決心を、私にも日々与えて下さい。私が怒ることを捨てたら、主が喜ばれるという信仰を与えて下さい。私が怒りを捨てても、主が最善をして下さるという信仰に生きる者とならせて下さい。


●2(水)
神は見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。    (1コリ12・24)

この「体」とは「キリストの体なる教会」のこと。その教会を、人の“輝く賜物”を用いて組み立てるのでないと言われる。見劣りしたり、役に立ちそうになかったり、取柄もない人を用いるのだと言われる。
なぜ?と考えて、気付いた。弱さって、天の父の御手が介入できる場となるから。誰の目にも、御業が働いて教会が建つのだと分かるから。そうか!「私には、その奉仕は苦手、無理です」と言っている人が、神様に目を付けられているんだな。


●3(木・祝日)
あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強い。 (1ヨハ4・4)

「イエスは天より降って受肉してくださった救い主キリスト」と告白出来たら、その人の内には神の霊が共にいるのだ。その信仰告白が、すでに助け手なる聖霊の御業だから。聖霊が「内におられる方」だ。
聖霊が、私の内におられ、私の内側から支え、心の内側にある言葉にならない呻きまで知っていて下さる。私の必要を、誰よりもハッキリと知っていて下さる。神の力を受けているんだ。何度でも自分に言おう、神の霊が我が内に在り、と。


●4(金・祝日)
御子の内にとどまりなさい。    (1ヨハ2・27)

イエス様は真に御子であられ、私の救い主キリストであられる―。この一事にとどまることを、この御言葉は迫ってくる。
それは、偽物の誘いが私たちを惑わせるから。その誘惑は、御子から離れさせて、自分主義にしがみつかせる誘い。つまり自分が神になる誘い。また聞いた御言葉を棚上げにさせる誘い。御子にこそ救いがあるのに、それを疑い出させる誘惑。
主は私を抱きしめていて下さる。でも私も主を求め、従う者であり続ける事も欠かせない。それは留まる決断の連続だ。


●5(土・祝日)
信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。  (1コリ13・13)

今年の年間聖句は「愛がなければ、無に等しい」。その文脈に繋がって出て来るのが、この御言葉だ。
信仰者の私にとって最も大いなるものは「信仰」なのかと思っていたけど、あれ、違うみたい。そうか、終わりの日、御国が来たら目の前に神を見るから、信じて待っていることも終わりが来る。希望も、もう実現するのだ。でも御父を愛することは、いつまでも残る。いよいよ輝くのだ。


●6(日・第1主日)

主日礼拝説教
     辻川篤牧師



●7(月)
たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。 (2コリ4・16)

私たちには、老いと病と艱難と誹謗中傷と…四方から苦しみが押し寄せる。そこで身も心も傷つき倒れそうになるだろう。確かに、私たちは衰える存在なんだ。しかし、それは『外なる人』のこと。
そうだ! 主と結ばれた私である『内なる人』は、苦難の日々に必ず主の恵みを見る。そこでこそ益々確信するだろう。「私は既に永遠の生命に結ばれている」という喜びを。ますます、ハレルヤだ。


●8(火)
神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。        (ガラ3・18)

 
神からの恵みは、いかにして手に出来るのか? これは重要関心事だ。その恵みは大きくて、神の子とされる安心も、死で終わらない新しい命もあるのだから。
 人は、大きな褒美を得るためには大きな努力をする。しかし神は言われる。神の恵みを受け取る方法は、「あなたにあげたい」と神が約束して下さったという事実を、ただ信じて、「感謝」と言えば良いと。
 私も、「約束を信じたら、もうそれでいただける」っていうの、良いなと思う。


●9(水)
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。    (テト3・5)

神様は私たちをじっと見て、「お前は正しく生きているか?熱心に奉仕し、献げ、隣人に尽くしているか?道を外れていないか?一つの悪事も行ったり、口にしたり、思ったりさえもしていないか?」と、採点されたりはしない。
神様は私たちをじっと見て、「ああ私の大事な子よ!愛しているよ!」と抱きしめて下さる。何もできず、かえってしたくないことをする私なのに…。感謝のみ。


●10(木)
いっさいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。    (1コリ4・7)

力もお金も能力も、今の境遇や健康さえ…、生命そのものだって、全てが神様からのいただき物。それは頭では理解しているつもり。でも、最初に忘れてしまうのが、このことなんだ。自分で勝ち取ったと思うから自分を誇り、持っていることにこだわり過ぎてしまうのだ。だから御言葉は続けて「なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのか」と告げる。
ガツンと言われた気がする。ガツンと言われる必要が、私にはあったから。


●11 (金)
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。(ロマ11・33)

ユダヤ人は、異邦人へと救いが広がることに頑な民だった。でも異邦人が救いに与れた時に、逆にユダヤの民も立ち帰る機会となった。不思議にも、そうやって全てのことが用いられて、全ての人が救われて神の子とされる日がやって来るのだ。それが、神の知恵・恵みの知恵だったのだ。
家族や友人の中に、こんな不信仰なキリスト者でしかない私が居るのは、その私さえ用いて下さる神の知恵なのだ。
「こんなふつつか信仰者の私ですが、どうぞ用いたまえ」と今日も一日歩もう。


●12(土)
兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。   (1ヨハ2・10)

「救われて神の子とされ、御父の光の中に入れられた」と信仰生活を歩いているはずなのに、私の現実が、暗く重く闇の中のようだとしたら。隣人関係で深く苦しんでいるとしたら…。
み言葉は「それは、あなたに愛が欠いているからだ」と告げる。そして、関係に苦しむ日々から、一気に喜びの光の中に立ち帰れる方法があると告げる。
それは、「私が」「私から」「私だけであっても」、愛する側に立つことだ、と。


●13(日・第2主日)

主日礼拝説教
      西田恵一郎牧師
        (和泉短期大学チャプレン)



●14(月)
奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。  (1ペト4・11)

誰にでも、御父からそれぞれに賜物を預けられている。それは用いるため。小さな業でも御父は喜ばれるし、喜びたいからと、賜物は預けられているのだ。
もしも用いることが出来るのに、貯め込んでしまっていたら。一番悲しまれるのは御父なる神ご自身かも知れない。御父の“悲しみの子”にはなりたくないな。


●15 (火)
何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。      (1コリ10・31)

「何をするにしても」とは、「食べるにしても、飲むにしても」と記されていた。それは四六時中「神が褒め称えられるようにするには、どんな食べ方?どう飲めばいいの?どう話したらいいの?どういう風に生きたらいいの?」と考えること、悩むこと。神の喜ぶ道を本気で探して、自分の事ばかり考えるのを捨てること。
あぁ難しい。四六時中、自分中心の心だから。あっ、言葉こそ口から出す前に神の喜ぶものに整えねば。最難問かも。


●16(水)
少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。    (マコ5・41)

皆が絶望していた。それは、「娘はもう死んでしまったのだから、どうしようもない」と思ったから。「イエス様でも、こればっかりはどうしようもないだろう」と思ったから。
しかしイエス様は、その人間の思う「どしようもない」という絶望を打ち破られるのだ。それも、お言葉ひとつで! 「起きなさい」を命じられる言葉で。
主の言葉は、いのちの言葉なのだ。それも生きて働いて、出来事化する神の言葉なのだ。日ごとに戴いて過ごせる幸せ。


●17 (木)
信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。        (エフェ6・16)

悪の策略が押し寄せる。聖書はそれを絵空事とはしない。しかしその上で、だ。跳ね返せる「神の武具」を数え上げてくれて、実装するようにと促してくれるのだ。「盾」となるのが「信仰」だよ、と。
主よ、信仰は我が身を守る必需品なのですね。「私は主のもの。神に愛されている」と信じることが、悪から自分自身を守る武具なのですね。悪の策略は、私は無価値だと思い込ませることだから。


●18(金)
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。      (ルカ1・45)

これは、聖霊によってイエス様を宿した母マリアに、洗礼者ヨハネの母エリザベトが告げた言葉。人知を超えた受胎を、しかしそのままに「この身になりますように」と受け入れたマリアの信仰を、エリザベトが「なんと幸いでしょう」と言ったのだ。
私も、聖書の御言葉を聞くたびに、「無理だ」とか「これはあの人に丁度いい」とか「いずれまた」と自分から遠ざけずに、いつもそのまま受け入れて従いたい。そこに神からの幸いが実現するのだから。


●19(土)
御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。(ヤコ1・21)

今日の聖句の前後に繰り返されている言葉がある。それらは同じ内容で、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」「御言葉を行う人になりなさい」「聞くだけで終わる者になってはいけません」…。ああ、なんと私は聞くだけの者で、受け入れない者だったことか。知るだけで、行わない者だったことか。行うことの実りは大きいのに、なんと軽視してきた事か。
今日の一歩一歩を、御言葉の上に置いて歩んで行こう。そうだ、御言葉を実際に生きるのだ。


●20(日・第3主日)ペンテコステ(聖霊降臨祭)

主日礼拝説教
      辻川篤牧師



●21 (月)
今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのです。         (ロマ5・9)

キリストが死なれた――、このことを延々と語り続けるロマ書。「その死は不信心な者・罪人であるあなたのためだったのだよ」と語り続けるロマ書。
今日の御言葉は、「わたしたちは」という箇所に「〇〇は」と、具体的に名前を書き入れよ、と招くのだ。自分だけでなく、親も子供も孫も、友人も、愛するすべての人の名前を入れてみよ、と。そうしたら、キリストの死がぐっと近づいて来る。救いの恵みが、ぐっと近づいて来るから。


●22(火)
しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。     (1コリ6・11)

洗われる前の真っ黒な姿を、御言葉は赤裸々に告げる「…強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は…」と。あなたがそれだと。そこに続けて、この御言葉が告げられるのだ。キリストの名と聖霊によって、あなたを雪のように白くした。既に洗い切った。もう一点の汚れもの無いと。受洗の日にだよと。
相応しく歩もう。洗ってくださったのは、十字架の血潮によるのだから。


●23(水)
神は人を分け隔てなさらない。       (使10・34)

使徒ペトロがヤッファで神様から幻で「自分が、これは汚れたものだと常識にしていたことさえ、神が『清めた』と言われたら清くなる」と諭された。これが、異邦人を隔てず救い招く転換点となった。
人って、「今までこうしていた。これが普通・常識でしょ」と言って、自分の経験にしがみつく。それが隣人を分け隔てする壁となっていても、だ。
神様は、その壁が一番お嫌いなんだ。全てに恵みを届けたいから。そうだ、その神様の恵みのお心にこそしがみつこう。


●24(木)
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。     (エフェ1・13)

み言葉を「聞いて」「信じて」最後に「証印」も押してもらった。振り返れば、正規の手順をすべて通って来たんだな。その手順を踏んで来たということは、正真正銘の鑑定書付ということ。神様から見たら、私にもハッキリくっきり「これは神の宝。神の子」とハンコが押されているんだ。
ならば、人から見られても「これは主のもの」と分かる歩みをしなくっちゃ。

●25 (金)
わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。    (ルカ6・46)

「主よ、主よ」と言うだけでは、信仰の堅固な土台とはならない。「神様、イエス様」と呼ぶだけでは、単なるご利益宗教と同じなんだ。イエス様はハッキリと言われる「私の言葉を行うこと、私に従うことが、あなたの信仰の土台をつくるのだ」と。「聞いても右から左で、行いにつながらない者は、信仰さえ倒壊するぞ」と。
厳しいなと思えるのは、私が日ごろ聞くだけで済ませている生活だからかも。信仰生活の本番は、ウイークデーにあり!


●26(土)
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることをしらないのですか。      (1コリ3・16)

キリスト者は、「建物」にたとえられる。その土台はキリストご自身。私たちは、その堅固な土台の上に建てられた聖なる神殿なのだ。だからキリストと一つとなり、キリストの言葉に聞いて、キリストに従う“存在”としてこの世にたっている。もうキリストまみれじゃないか。それも聖霊が、我が内に住まう建物とされているのだ。
私の存在は、もう「主のもの」。そのままの在りようを生きていたい。


●27 (日・第4主日)

主日礼拝説教
      辻川篤牧師



●28(月)
今から後、あなたは人間をとる漁師になる。   (ルカ5・10)

これは、ガリラヤ湖の漁師だったペトロがイエス様の弟子として歩みだす瞬間だ。その瞬間は、イエス様の一言で始まった「人を神のものとするために捕らえる“漁師に”なるのだ」と。それも、「漁師になるか?」とか「やってくれるか?」の問いかけじゃない。「漁師になる、あなたはもう弟子になると決まっているから」という激しい招きだ。
「人間をとる」という御言葉のところに、そっと自分の愛する人の名前を入れたら、私も心が熱くなった。


●29 (火)
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。  (ロマ3・24)

救いへ向かう一本道には、道筋がハッキリ分かるように“道標”がある。ここがその道だと分かるように“標識”が立っている。それがこの御言葉だ「ただキリストによる」「贖いの業を通して」「神の恵みによる」「無償で」「義とされる(ゴール)」だ。
どれもが道を見失わないための“道標”なんだ。そうだ!生活の中で迷子になりそうになったら、いつでもこの御言葉を思い出そう。立ち位置を修正するために。


●30(水)
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。」  (マコ10・21)

神の掟を完璧に守っていると自負する青年が、イエス様に「これ以上何が必要でしょうか」と問うた。それにイエス様が答えられたのがこの御言葉だ。それは「あなたに欠けているものがあるよ。それは隣人に尽くすことだよ。財産も能力も賜物も全てを投げ出して尽くし切って御覧」と。
それも、慈しみの目の中に青年をとらえて言われた。「本当はそこに立って欲しい」と導かれる眼差しで。「きっとあなたならできる日が来るから」との眼差しで。


●31(木)
起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。     (ルカ5・24)

中風を患っていた男を、友人達がイエス様のもとに担ぎ込んであげた。そこで主は、罪を赦して病も癒された場面だ。
起き上がることなんてもう一生できないと思いこんでいた病だけど、主はその苦しみを砕く一撃として「病の淵から起き上がれ、絶望から起き上がれ」と告げられたのだ。「ここしか自分の居場所は無いんだと、がんじがらめに縛られていた床を、お前が担ぎ上げろ、さあ自由に歩き出せ」と。私にも、今日必要な一言として、心に染み込んだ。

posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 18:36| 『日々の聖句』

2018年05月27日

説教 『無意味なものにならないため』

2018年5月27日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二9章章1〜5節
聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。

 パウロは、コリントの教会から1年前に「エルサレム教会への募金を集めてますから、待っていて下さい」との約束を聞いていました。でも1年という時間は長いもので、その間に教会で諸問題が堰を切ったように溢れ出したのです。私どもならそういう時、他人のことを思って支えたいという思いは、どうなるのかと思います。もしかしたら「他人のことを気付かっている余裕なんて無い」と言い始めたりしないでしょうか。そして他者を憶えて祈ることさえ忘れて行くことも。

 そうであるのなら、コリントの人たちに伝える言葉は当然、忠告になるはずだと思います。しかしパウロは募金を集めるのを忘れないようにと勧告する前に、2節、「あなたがたを誇りました」と言ったのです。募金が集まったかどうか、彼らが約束を守る人たちであったかどうか、その結果を見ないで、結果を見る前に、「誇った」と言っているのです。人は大抵、相手の行いの結果を見て「なんて素晴らしい人だろう。私の誇りです」と言うじゃないですか。でもパウロは、彼らが満足のいく募金をしてくれたから、その結果が素晴らしくって誇るんじゃない。その順序を全く無視しているのです。彼らのすることを見ないで、大胆に冒険するように、信頼するほうに飛び込んだのです。

 彼らの「他者を思う心」は、教会の諸問題の波に飲み込まれて失う危機の中を歩んでいた。だからパウロは居ても立ってもいられなかったのでしょう。だから彼らに「あなた方には、隣人を愛する心が在るだろ」と伝えないではいられなかった。その思いで「あなたたちを私は誇っている。誇り続けているから」とこの手紙を書き送ったのだと思えてなりません。

 今朝の御言葉が、聖書の御言葉であることにおいて、単に2千年前にパウロという特定の人が、コリントという特定の人々に告げた言葉でなくなります。これが神の御言葉であることにおいて、私どもにも、神ご自身から告げられている宣言になるのです。主なる神が、今朝わたしどもにも告げていて下さる、「あなたは私の誇りだ。だから私のその思いを、無意味なものにしないでおくれ」と。私どもに「他者を思う人として生きておくれ。行いにおいて、あなたの口から出る言葉において、そのように生きておくれ」と告げていて下さるのです。神は、私どもを信じ切る冒険をして下さる。私どもが、必ず神様の信頼に応答する姿に歩むことを、信頼していて下さるからです。新しい1週間が始まりました。たとえ荒れ狂う問題があろうとも、そこでもなお他者を思い、隣人のために祈り、家族のために神に執り成すキリスト者として、歩もうではありませんか。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:30| 主日説教要約

2018年5月27日の礼拝

礼拝説教「無意味なものにならないため」、コリントの信徒への手紙二 9章1〜5節、辻川篤牧師。讃美歌499、532、403。交読詩編97編1〜12節。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ