2018年04月08日

説教 『愛の証しを見せてください』

2018年4月8日の説教
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二8章22〜24節
彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。


 パウロは、「献金」のことを「愛の証し」と言い換えます。聖書で「愛」と言う言葉が出てきたら、人間的な情愛のことではないでしょう。「愛」と訳され言葉は、聖書の元々の言葉では「アガペー」といって、「自分の身も心も『あなたのために』と削って、与え切ってしまう思いと行い」のことです。ですからパウロは、「あなたがたの深い愛の証しを見せて欲しい。テトスや諸教会の人に、見せて欲しい」と告げていたということです。

 でも、と思います。キリスト者であっても自然な思いは「募金とか施しは、どれだけしたのかを人に見せないのが良いのではないか」ということのかも知れない。それなのにパウロは、一体何を告げたいのだろうかと、私は悩んでしまったのです。

 ふとまた、あのマルコ福音書にもルカ福音書にも書き留められていた「やもめの献金」の出来事を思い出しました。彼女小さな献げものは、賽銭箱の音さえ鳴らせなかったでしょう。しかしでした。その誰も気付きもしなかったやもめの行為を、傍におられたイエス様が、わざわざ証しされたのです「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。生活費を全部入れたからだ」と。弟子たちを呼び寄せて「この女は、まるで命そのものを削ったのだ」と公にされたのです。女の献金の業を、喜んで公にされたのは主ご自身だったのです。弟子たちを集合させてまで「さあ聞いてくれ、この女のしたことを私は公に示したい。この女の“削り出す愛”を私が証言しよう。そこであなたがたも一緒に喜んでくれるために」と話されたのです。人々に見せたかったのは、主イエスご自身の思いであったのです。

 パウロは、「あなたがたの愛の証しを見せてください」と言います。それは、そうやって生きる者は、キリストに似る者の姿だからです。自分のことを削って隣人のために生きようとする姿が愛であり、それは十字架で命を削り出されたキリストの姿に重なるからです。そしてそれが、イエス様ご自身が公にしたいことだったからです、「ここに私そっくりの者がいる。ここに私に従う者がいる。ここに私の友、私の兄弟姉妹がいる。その生き方で分かる、その愛の業で分かる」とね。

 今朝「献金の業」を、「奉仕の業」「愛の業」と言い換えられていたことに、信仰生活がとても豊かにとらえることが出来るように思えて、嬉しくなります。お金の事だけじゃないんです。私どもの手の業、足の業、口の業や、あらゆるものが「愛の業」になるなら、主の喜びとなり、主が「皆見てくれ、知ってくれ。この人がしたことを私が公にしたい。この人の愛の証しをしたい」と言ってくださるのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:31| 主日説教要約

2018年4月8日の礼拝

礼拝説教「愛の証しを見せてください」、コリントの信徒への手紙二 8章22〜24節。辻川篤牧師。讃美歌152、2編41、355。交読詩編145編1〜13。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 00:00| お知らせ

2018年04月02日

イースター礼拝説教 『わたしの神よ』

2018年4月1日 イースター礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
ヨハネによる福音書20章24〜29節
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


 主イエスが甦らされた日、弟子たちがこもっていた部屋に御姿を現して下さいました。しかしそこにトマスは居合わせていなかったのです。戻って来た彼に、弟子たちが主の御復活を伝えます。でもトマスは一緒に喜ぶどころか、「なぜ私が居なかった時に…」と不満になる。それは不快な思いとなり、とうとうその憤懣が言葉となって外に出てしまったのです「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手を、そのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。弟子であるなら目を背けたいはずのイエス様の御傷に、トマスは自分の指でこじ開けてみなければ決して信じない、と言ったのです。その瞬間、弟子たちの間に一瞬、緊張が走ったでしょう。

 そして8日経ちました。再びご復活の主が現れて下さり、トマスに語りかけ始めます。その言葉は、あのトマスの言葉を、まるでそのままなぞるような言葉でした、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と。トマスが「わたしの指を、わたしの手を」と叫んだあの言葉を、イエス様は「あなたの指を、あなたの手を」と、そのままなぞられたのです。それは、トマスが「わたしの指を、わたしの手を」と叫んだ“あの場面”が、イエス様には「トマスよ、あれはお前の弱さが詰まった場所だったのだね」と、分かっておられたということではありませんか。トマスは、自分の思い通りにならなかったから、苛立ったのです。自分が一番慕ったはずなのに、その自分が認められなくて憤ったのです。そこではもう、主に委ねるなんて出来ない。自分で自分を守るしかないと、必死になって自分を守る鎧を着こんでいた。そしてそこで、彼は、信仰をも失っていたのです。そこで最も弱い姿になっていた。

 しかしイエス様は、そのトマスの弱い信仰のままで、彼をすっぽりと、言葉をもって覆って下さったのです。それは、トマスを赦すということでした。そこでトマスは気付かされて行くのです「弱さの中に立っていたのは私自身だった。その私に、かつて一緒に過ごしたあの日々のイエス様が、いま立っておられる。ここにおられるのは、甦られたイエス様、それ以外ではない」と。

 トマスはそこでようやく、イエス様に告げたかった“本当の思い”を告げることが出来たのです、28節、「わたしの主、わたしの神よ」と。それはそのまま彼の信仰告白の言葉でありました。

 甦られた主は、私どもの前にも立っていて下さいます。その甦りの主に、私どもも申し上げようではないですか「わたしの主、わたしの神よ」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:50| 主日説教要約