2018年03月25日

棕櫚の主日説教 『それを嘲りとは思わない』

2018年3月25日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
イザヤ書50章4〜9節
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
わたしの正しさを認める方は近くいます。
誰がわたしと共に争ってくれるのか
われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか
わたしに向かって来るがよい。
見よ、主なる神が助けてくださる。
誰がわたしを罪に定めえよう。
見よ、彼らはすべて衣のように朽ち
しみに食い尽くされるであろう。

 イザヤが「エルサレム帰還の時が来た」と人々に告げます。しかしそこで大反発が起こったのです。「我々はここでの生活に十分満足している。神の御計画だと言われても、もう結構だ」と。その迫害は熾烈なものでした。鞭や棒で打たれ、そして「嘲りと唾を受けた」と言っています。イザヤは侮辱の限りを尽くされて、身も心も激しい苦しみを受けたのです。

 皆さん、それは神の言葉を伝えたからです。むしろ神の御旨に従ったからだと、伝えられているんです。「それにしても何故イザヤは、それでも語り続けたのだろうか」と思います。御心に従い続けても、そこで苦しみが増すだけなのに、どうして放り出さなかったのか、です。

 「なぜ」と問う私どもに、聖書は「主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない」とイザヤの言葉を伝えます。この「助けてくださる」というのは、「手伝う」とか「手を添える」というように、弱ったり疲れ切った時にパートナーが一緒にいて、腕を抱えてくれたり背中に手を当てたりする、そういう「助け」です。それはまさに、助ける者が傍にいるということ無しには、起こりません。それはつまり、いま苦しんでいる場所が、私のパートナーとして神が共にいて下さる場所だ、ということではありませんか。つまり、神も共に苦しみを背負っておられる、神が私の十字架を一緒に背負っていて下さるということなのです。苦しみの中に、神が居られる。そこに私がいるからです。そして、だからこそそこで告白できることがある、「わたしはそれを(今の苦しみを)嘲りとは思わない」と。この苦しみの場にあって、なおここに神の御計画があると信じて立つ、ということであります。

 この箇所を読む時に、私どもはイエス様の十字架への道行きを思い起こさないではいられません。イエス様は、父なる神に従う歩みの中で起こる苦しみの中で、神の計画を真実に実現しておられたのです。この苦難を「嘲りとは思わない」、その道を進まれたのです。

 神の御心のままに歩みたいと生きて行くこの世の生活で苦しみに遭う日に、私どもは気付くことがある。私のために身代わりで死んでさえ下さった方が、いま私の具体的な苦しみにも「あなたと共にいるから」と付き添って下さるのだ、ということです。そして、そのイエス様と一緒なら私どもにも言えることがある、「御心に従って歩む人生、たとえ何があっても、それを嘲りとは思わない。なぜならそこが苦難の道であっても、私の思いや考えを遥かに超えた、神の計画が、きっとそこで実現する場所なのだから」と。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 17:14| 主日説教要約

2018年3月25日の礼拝

この日は棕櫚の主日です。主イエスが十字架へと向かう最後の1週間・受難週が始まります。
礼拝説教「それを嘲りとは思わない」、イザヤ書50章4〜9節。辻川篤牧師。讃美歌15、507、138。交読詩編24編1〜10節。
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