2018年02月25日

説教 『しかし、聖霊に言い逆らう者…』

2018年2月25日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章31〜32節
だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。


 「聖霊に言い逆らう者は、赦されることがない」。こともあろうに、慈しみ深いイエス様がこんなことをおっしゃるなんて、と思いませんか。

 しかしよく見ると、イエス様はここで「赦されない」とおっしゃる前に、「人の子に言い逆らう者は赦される」とも言っておられる。「人の子」とはイエス様ご自身のことです。ですからイエス様は「私のことを罵り言い逆らう者は、赦そう」とおっしゃったということです。それは口先だけの事ではなく、本当に「私を罵る者も赦す。全てを身に引き受けてあげる」と、十字架の道を歩まれたのではないですか。だからこそ余計に「それほどのことも身に引き受けて下さる慈しみのイエス様なのに、なぜ聖霊に言い逆らうことだけはするな、と言われたのか」と悩んでしまうのではないですか。

 皆さん、改めてうかがいますが、あなたは神の霊を冒涜したことはありますか? ちょっと不安になるのは、神様と生きた信仰生活を送る者にこそ、人生の苦難の時「神様、なぜ私にだけ働いて下さらないのですか」という小さな不満が起こるからです。でもその不満が、神様に知られているとしたらです…。

 実はそういう「神様なんて働いておられない」と思うことが、私どもの内で現実に働いておられる神の霊に対する「言い逆らい」であるのです。自分で見えなくても気付けなくても、本当は働いておられる神の霊がおられるのに、そのお方に向かって「あなたは何もしていないじゃないか」と言っている事なのです。それは、私どもの内に働いておられる聖霊を、否定して、罵っていることになるのです。

 私どものことを、誰よりも大切にして下さる神の霊が一緒に歩いていて下さるのに、人間の有限でしかない知識によって、「そんな方など、居ない」と否定することです。イエス様はここで、「どうしてこの世の知識で、聖霊など見えない、御力など無いじゃないかと言うのか」と嘆かれたのです。それは、「どうか受け入れて、聖霊の働きに生かされて生きよ」という、切なる願いの言葉だったのではないですか。イエス様は「あなたがどんな苦しみの中にあっても、いつも聖霊は、あなたの内にあって、あなたと一体となって歩いていて下さる。あなたに働き、支えている。それを信じて生きよ」と詰め寄られたのです。それは、「私のことはどんなに罵っても身に引き受けるから。しかし聖霊は、あなたを愛してあなたのために働いておられるのだから、どうか退けないでおくれ」との切なる招きでもあった のではないでしょうか。その招きを私どもが受け入れて過ごすなら、そこに平安も喜びも訪れるのです。
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2018年2月25日の礼拝

礼拝説教「しかし、聖霊に言い逆らう者は…」、マタイによる福音書12章31〜32節。辻川篤牧師。讃美歌11、136、507。交読詩編18編2〜7節。
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