2018年02月04日

説教 『愛の純粋さを確かめようとして』

2018年2月4日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二8章8〜15節
わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。
「多く集めた者も、余ることはなく、
わずかしか集めなかった者も、
不足することはなかった」と書いてあるとおりです。


 パウロは、貧しかったエルサレム教会を、富んでいる人が多いコリントの教会が献金で支えて欲しいと話して来ました。それもです、「これだけのものを献げなさいという言い方はしない」と。ではどう言ったのか、それが「他の人々の熱心さに照らして、あなたがたの愛の純粋さを確かめようとして、だ」ということでありました。神様は、あなたの慈善の業において、あなたの愛が本物かどうか、真実なものか中途半端なものなのか、心を尽くした結果なのかどうか、それを見詰めておられるのだと言うのです。

 その「愛」というのは、聖書の原語を見ますと、「とっても好き」とか、単なる心の持ちようの意味ではないことが分かります。これは、ご存知のことと思いますが「アガペー」です。つまり、自己犠牲の姿なのです。「あなたのために、私が自分を犠牲にする、そういう私として生きる」という姿なのです。心の話どころではない、自分を犠牲にする激しい“行為”なのです。そしてです。そういう特別な愛を、コリント教会の人々はまだ知らないのかというと、そんなことはありませんでした。彼らは既に十分知っていました、それは、その真の愛に生き、その愛によって死なれたお方を知っていたからです。十字架で死なれたイエス様です。

 イエス様はご生涯で、ご自分のものを持つことを一切断念されましたよね。それは、お金とか家とかいうモノだけのことじゃない。一切持たない貧しさとは、自分の理解者さえ持てなかった程にです。主は地上で、一人の理解者さえ持てなかったのです。そこで、とうとう命をさえ十字架の上で捨てさせられてしまったのではないですか。しかしそんなイエス様の全ての貧しさで、実は私どもが豊かになる。それが主ご自身の思いの現実化だったのではないですか。愛する「思い」は、必然的に、「業」に繋がるのです。

 言い換えるなら、愛に生きるならば、自分が痛みを負う。人と関わる愛は、そこに痛みが起こるのです。それは、愛することが、業と繋がっているからです。み言葉は私どもにも、「あなたの業には、愛があるか? それは真実な愛か? そこに痛みはあるか?」と問うて来ます。奉仕する事にも、善き業にも、献げ物をするということにおいてもです。だから私どもは「主よ、私がこの奉仕をしていて傷を負うことがあるのは、それで良かったのですね。愛そうとしたとき痛みを感じたのは、それで良かったのですね。兄弟姉妹のため、隣人のため、家族のため、教会のためと思う業で傷つく時、神様はそこに、私の中にも本物の愛を見つけて下さるのですね」と生きて行けばよいのです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 13:43| 主日説教要約

2018年2月4日の礼拝

〇礼拝説教「愛の純粋さを確かめようとして」、コリントの信徒への手紙二 8章8〜15節。辻川篤牧師。讃美歌8、2編1、452。交読詩編147編1〜11節。◇第1主日ですので、礼拝の中で聖餐式が執行されます。
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