2018年02月11日

説教 『神の国はあなたたちのところに来ている』

2018年2月11日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章22〜30節
そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。


 イエス様の所に、目が見えず口も利くことが出来ず、自分の心も自由にすることが出来なかった人が連れて来られ、癒されました。群衆も彼と一緒に喜んで、「この人はダビデの子(救い主)ではないか」と叫び出します。その時、それを聞いたファリサイ派が、救い主であってたまるかとばかりに、イエス様を悪霊呼ばわりし出したのです。

 そこに、イエス様との論争が始まり、主があっけなく論破されました。しかし、その直後だったのです。イエス様は、これで決着とばかりにご自分の働きへと戻って行かれて良かったはずなのに、そうはなさらなかったのです。まるで彼らを論破することが目的ではないかのように、論理からはみ出した言葉を付け加えられたのです。それが28節、「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」という言葉でありました。

 アレッと思いました。その「あなたたち」というのは、誰のことなのか、です。私は最初「勿論、イエス様の傍にいた群衆の一人一人で、素直にイエス様の到来を喜べた人達のこと」と思っていました。でも、イエス様がこの時に論争している相手は、つまり「あなたたたち」と呼び掛けられているのはファリサイ派なのです。そうするとイエス様は、「人々が憧れた神の国は、私を全否定して、私を悪霊呼ばわりして、おとしめようと謀ったお前たちの所に到来している」と仰ったということになるのではないですか。私は、「そんなこと、この世の常識とは、全く違う話じゃないか」と思ってしまったのです。皆さんはどう思われますか。

 そしてです。そう思った時、「こんなのこの世のどこにもない話だ」と気付けたら、その時ハッとしたのです。「これはイエス様が言われた、神様の支配される世界の話なんだ、この世が支配する常識的な話じゃないと感じたなら、それで当然なのかも」と、そこに立ち帰れたのです。その立ち位置は、「人間が、神の恵みはこんな所には無いと思おうがどうしようが、恵みの支配は、神の側からどこにいる人にも、上から襲うようにして到来するのだ」という立ち位置です。

 イエス様を明らかに足蹴にしたファリサイ派の人々に向けて、主イエスが「あなたたちのところに神の国は来ている」と言われることを通して、全ての人に明らかになったことがある。それは、「神の恵みの支配は、人が下から努力して登って行く所にあるのではない。むしろ上から降って来る。恵みは、誰にでも襲いかかり、あなたにも降り注ぐようにして、到来するのだ」ということなのです。そして主は「それを信じる者になれ」と、私どもを招くことをこそ、なさりたかったのです。
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2018年2月11日の礼拝

礼拝説教「神の国はあなたたちのところに来ている」、マタイによる福音書12章22〜30節。辻川篤牧師。讃美歌9、214、168。交読詩編125編1〜5節。

・午前10時30分から礼拝堂で行われます。
・礼拝では聖書が読まれ、その箇所で説教がなされます。
・またパイプオルガンの奏楽によって一緒に讃美歌を歌い、感謝と願いを込めて祈りがささげられます。
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2018年02月04日

説教 『愛の純粋さを確かめようとして』

2018年2月4日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙二8章8〜15節
わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。
「多く集めた者も、余ることはなく、
わずかしか集めなかった者も、
不足することはなかった」と書いてあるとおりです。


 パウロは、貧しかったエルサレム教会を、富んでいる人が多いコリントの教会が献金で支えて欲しいと話して来ました。それもです、「これだけのものを献げなさいという言い方はしない」と。ではどう言ったのか、それが「他の人々の熱心さに照らして、あなたがたの愛の純粋さを確かめようとして、だ」ということでありました。神様は、あなたの慈善の業において、あなたの愛が本物かどうか、真実なものか中途半端なものなのか、心を尽くした結果なのかどうか、それを見詰めておられるのだと言うのです。

 その「愛」というのは、聖書の原語を見ますと、「とっても好き」とか、単なる心の持ちようの意味ではないことが分かります。これは、ご存知のことと思いますが「アガペー」です。つまり、自己犠牲の姿なのです。「あなたのために、私が自分を犠牲にする、そういう私として生きる」という姿なのです。心の話どころではない、自分を犠牲にする激しい“行為”なのです。そしてです。そういう特別な愛を、コリント教会の人々はまだ知らないのかというと、そんなことはありませんでした。彼らは既に十分知っていました、それは、その真の愛に生き、その愛によって死なれたお方を知っていたからです。十字架で死なれたイエス様です。

 イエス様はご生涯で、ご自分のものを持つことを一切断念されましたよね。それは、お金とか家とかいうモノだけのことじゃない。一切持たない貧しさとは、自分の理解者さえ持てなかった程にです。主は地上で、一人の理解者さえ持てなかったのです。そこで、とうとう命をさえ十字架の上で捨てさせられてしまったのではないですか。しかしそんなイエス様の全ての貧しさで、実は私どもが豊かになる。それが主ご自身の思いの現実化だったのではないですか。愛する「思い」は、必然的に、「業」に繋がるのです。

 言い換えるなら、愛に生きるならば、自分が痛みを負う。人と関わる愛は、そこに痛みが起こるのです。それは、愛することが、業と繋がっているからです。み言葉は私どもにも、「あなたの業には、愛があるか? それは真実な愛か? そこに痛みはあるか?」と問うて来ます。奉仕する事にも、善き業にも、献げ物をするということにおいてもです。だから私どもは「主よ、私がこの奉仕をしていて傷を負うことがあるのは、それで良かったのですね。愛そうとしたとき痛みを感じたのは、それで良かったのですね。兄弟姉妹のため、隣人のため、家族のため、教会のためと思う業で傷つく時、神様はそこに、私の中にも本物の愛を見つけて下さるのですね」と生きて行けばよいのです。
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