2018年01月28日

説教 『主を待ち望め』

2018年1月28日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
詩編27章11〜14節
主よ、あなたの道を示し
平らな道に導いてください。
わたしを陥れようとする者がいるのです。
貪欲な敵にわたしを渡さないでください。
偽りの証人、不法を言い広める者が
わたしに逆らって立ちました。
わたしは信じます
命あるものの地で主の恵みを見ることを。
主を待ち望め
雄々しくあれ、心を強くせよ。
主を待ち望め。

 詩編27編を書いた人の前には「敵」がいて、先行き不安の中にもいたようなのです。それなのに、まるで溌溂として「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ」と言ったのです。何だか強い人が、弱っている人を励まそうと言っている言葉のように聞こえませんか。でも、そもそも弱っている人に「雄々しくあれ、頑張れ」という励まし語って、禁句なのではないですか。

 もしもこの御言葉が、「主を待ち望め」という一言が付けられること無しに、単に「雄々しくあれ、心を強くせよ」と言っただけだとしたら。それは、頑張らなくてはならないのは、「あなたは今疲れているかも知れないけど、もっと奮起しろ」ということになりますよね。でもなんです。この詩人は、「雄々しくあれ…」と言う前に、「主を待ち望め」と一言を付けた。その一言によってです。一気に変わることがあったのです。

 「主を待ち望め」という一言によって、「あなたが頑張ること」が求められている事じゃなくなる。その逆に「あなたがすることは、ジッと待つことだ」ということになる。「主があなたのために立ち上がって下さる。その主を待っていたらいい。その約束を見たら、あなたは雄々しくあれるだと」ということになるからです。

 この詩は、伝統的にダビデの詩として読むならばニュアンスがよく聞き取れるだろうと言われてきました。だから「この詩は、ダビデが息子アブサロムに裏切られ、息子に命を狙われて、自分からエルサレムの城を明け渡した時のことだ」と考えた神学者もいます。ダビデは泣きながら都を下って逃げている時、嘆きつつこの詩を歌ったのです。そこで「主を待ち望め、そうだ、私の魂よ、主に望みを置け」と歌ったのです。それは、「この敵を、神様、何とかして下さい」というような、自分の苦しみに目を置いた歌とはならなかった。そうではなくて彼は、自分の思いや敵をさえ見ることから、神へと向き直って、主なる神へと目を向けたのです。自分の願いや不満じゃなくて、神へと心を置いた。その時にです。自分の中には何の希望もなくても、将来の見通しもまだ全くない中で、彼には力が湧いて来たのです。外から湧いて来る勇気に押し出されて、「さあ、雄々しくあれ。心を強くするんだ」と、自分に宣言することが出来たのです。

 詩人は、「あ〜、神様を知っていて良かった。大丈夫だよ、安心だよ」と言ったのです。「主を知っている、ああそうだ、その主を待ち望め」と。そしてそこに立つなら、どういう解決が待っているのか、まだ何の見通しもなくても、リアルな安心を、自分がつくり出さなくても、神様から与えていただけるのですから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 15:37| 主日説教要約

2018年1月28日の礼拝

〇礼拝説教「主を待ち望め」、詩編27編11〜14節。辻川篤牧師。讃美歌7、517、296。交読詩編126編1〜6節。

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