2018年01月14日

説教 『わたしの心に適った者』

2018年1月14日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
マタイによる福音書12章15〜21節
イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、わたしの選んだ僕。
 わたしの心に適った愛する者。
 この僕にわたしの霊を授ける。
 彼は異邦人に正義を知らせる。
 彼は争わず、叫ばず、
 その声を聞く者は大通りにはいない。
 正義を勝利に導くまで、
 彼は傷ついた葦を折らず、
 くすぶる灯心を消さない。
 異邦人は彼の名に望みをかける。」


 イエス様は見事ファリサイ派を論破して、病に悩む男を癒してあげます。それで彼らはイエスを殺そうと策略を始めたのです。15節の「イエスはそれを知って」というのは、その殺害計画のことです。もし私がこの場にいたら、きっと「難しい安息日論争を論破されたイエス様なのですから、殺害の陰謀を問い詰めることぐらい簡単ではないですか、今こそこの輩をやっつけてください」と言っていたはずです。それなのにでした。イエス様がなさったのは不可解な行動だったのです。15節「イエスは、そこを立ち去られた」と。なぜ立ち向かわないんだという不満で、モヤモヤして来る私…。

 イエス様は、ファリサイ派に立ち向かえたはずの場所を、退かれはしました。しかし、そのイエス様について来た群衆の「皆の病を」癒されます。病の辛さって、本人にとっては病状の重さ軽さに関係ないですよね。イエス様が「皆の病を」癒されたというのは、十把一絡げではなくて、一人ずつ受け止めて下さったということです。そう思ったら、ふと、イエス様のお心は直前の安息日論争をしておられた時から、何も変わっていないじゃないかと思ったのです。安息日論争も、論争をするために論争されたんじゃない。たった一人の手の萎えた男の辛さを、ご自分のこととして受け取られたから、安息日であろうとなかろうと、一切が後回しになって、一人の人の辛さに寄り添われたのではないですか。ファリサイ派の目から見たら、それが「安息日論争」となったと言うだけで、イエス様がなさったことは、「あなたのために、思いを尽くす」ということだったのではないですか。そういう姿は、ちっとも変っていない。アッと思いました。イエス様がいつも闘っておられたのは、ご自分のためではなくて、人のためだったと気付かされたからです。

 たとえご自分の命が奪われる策略を目の前にしても、自分のための闘いはなさらない。イエス様が力を尽くされるのは、いつも「あなたのため」であった。それも、20節には「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」と記されています。傷ついた葦とは「役に立たない者」の譬えです。「くすぶる灯心」も、「無価値になってしまう者」の譬えです。そういう一人ひとりのために居られるのが、イエス様という存在なのだと告げられていたのです。それをマタイ福音書は、「この立ち去りのイエスが、わたしの心に適った者だと、父なる神が告げておられるのだ」と、記していたのです。

 神の心は、私どものことを私自身よりも大切に見詰めていて下さる思いです。私以上に、私を愛していて下さるのです。それが神様の願いであるからです。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 14:47| 主日説教要約

2018年1月14日の礼拝

礼拝説教「わたしの心に適った者」、マタイによる福音書12章15〜21節。辻川篤牧師。讃美歌5、413、124。交読詩編36編6〜10節。

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