2018年01月09日

2018年主題聖句説教 『愛がなければ、無に等しい』

2018年1月7日の礼拝
相模原教会牧師 辻川篤
コリントの信徒への手紙一13章1〜7節
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。


 この1年、私どもは「愛がなければ、無に等しい」という御言葉を、自分自身の額に引っ付けて歩むのです。そのとき、この「愛がなければ」というところを「愛する気持ちも一緒にしたほうが良いよ」という程度にしか考えないなら、そこでたやすく愛することを見失います。そこで、「愛なしにだって何だって出来るし、それで十分じゃないか」思うことが、始まってしまうのかも知れません。実は、自分で愛することを自分の中に留まらせておくことは出来ません。まして、自分が計画して訓練して、高めて行くことなど出来ないんです。そういう私どもに神様は、「愛がなければ、無に等しい」と突き付けられるのです。

 手に入れたい、手に入れなきゃと渇く私どもに、その思いになった心に、ようやく届いて来る御言葉がある。それが、愛についてハッキリと示している言葉、4節以降です、「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず、高ぶらない」と、それも、そう聞いて私どもは「このたった1つも、人間は持っていないものだった」と気付く、そこでさらにです、「いやたったお一人だけ、この愛に生きておられた方を知っている」と気付くのではないですか。それは、「ここにある姿は、イエス様の姿そのものではないか」ということです。パウロは、ただ写し取ったのです、神の御子イエス様の御姿をです。5節「自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真理を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」。あっと、ようやく私は気付きました。「愛とは、イエス様そのものだった」と。

 どんなに熱心に奉仕しても、献げ物をしても、家族のために尽くしても、子どものために働いても、「愛がなければ、無に等しい」、だからこそ私どもは、本当に愛に生きる者に、変えられなければならないんです。日々新しく変えられ続けなければ、私どもの人生は危ういんです。そういう気付きの中にある私どもに、聖書は、この世と全く違う語り方をして来ます。愛そのもののお方、神の子イエス様を指し示して、「この方と共に生きよ」と告げるのです。「あなたの業は小さくて貧しいかもしれない、しかし主イエスが共にいるなら、愛そのものの方が、あなたを豊かさへと導くから」と。私どもは、十字架の下に駆け寄って、心の中に主イエスを戴いて、奉仕する時に主の姿に重ねさせていただき、献げる時に主を思い、語る時に主の口に私どもの口も合わせさせて頂いて、いつも主を思いつつ生きるのです。そのとき、私どもの小さな業も、イエス様が整え導いて下さいますから。
posted by 相模原教会ウェブページ管理委員会 at 09:52| 主日説教要約